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[#103] 何とも言えない 『猫~たまにいらっしゃいますよ~』
『猫~たまにいらっしゃいますよ~』
犬派だった。
猫も嫌いではなかったが、何を考えているかわからないという理由から少しばかりの恐怖を抱いていた。
今思うと猫が何を考えているかはわかる時もあるし、犬も何を考えているかわからない時もある。
ましてや人間だって何を考えているかわからない。
その「わからない」という現象にいちいち怯えていたらキリがないのだ。
手や腕には引っ掻き傷。
首根っこを掴んでまでゲージに入れたのに、病院に我が子を預けるのには気が引けた。
一時帰宅しても特に何をするでもなく部屋を浮遊する。
そんな昼下がり。
切り替えて洗濯などしてみる。
普段なら脱走しないようにベランダを開けるときはその部屋に奴がいないか確認し、その部屋の扉を閉めてからベランダへと出る。
扉を閉めるとその向こうでずっと鳴いているので洗濯物を干すのを急かされる。
ゆっくり太陽を浴びて洗濯物くらい干したいものだが。
そう思う僕は重たい洗濯物を持ちながらベランダに出る前に、今日はいるはずのない奴がいないかを確認し扉を閉めていた。
癖というのは恐ろしいものだ。
そして心が寂しいと言っている。
あいつがいない昼下がりのこの部屋はこんなにも静かだったのか。
「取ってしまった睾丸はどうなるんですか?」
公の場で金玉と言っていいのか分からず、こんな言い回しになってしまった僕がいた。
(このコラムでは金玉金玉と連呼していることをお許しください)
逆に余計に意味を持ってしまい動物病院の個室は変な空気になった。
一番恥ずかしかったのは急に睾丸と口走った旦那の横に立っているうちの奥さんだろう。
先生は睾丸というワードには特にリアクションもせずに、棄ててしまいますねと言った。
棄てるのが当たり前なのだろうけど、先生は僕に申し訳ない顔だ。
先生も動物並みに空気を読んでくれたに違いない。
「まぁそうですよね」
僕はそう言うだけで最後に我が子の金玉を触ったり写真に撮ったりした。
睾丸発言でもう先生も助手の女性も僕がアホだということを認識してくれたようで、このような行為にも特にリアクションはしないでいてくれた。
奥さんは呆れた表情だ。
我が愛猫だけは写真が撮りやすいように僕のスマホに大きな金玉を向けてくれていた。
清潔な匂いのする病室での少し下品な行為というミスマッチが窓の外に見える空と相まって泣けた。
嗚呼、我が子の体の一部が切り取られ棄てられるのか。
そう思った時、ある考えが思い浮かんですぐに飲み込んだ。
「金玉って持って帰れますか?」
こんなことを思っても言ってはいけない。
わかっている。
しかしもう僕はこの部屋で全員からアホだと思われているに違いない。
ならばこの想いはもう口から出してしまおう。
「金玉って持って帰れますか?」
すぐに言ってしまった。
「とってもいい子でしたよ!」
動物病院の受付の女性が笑顔で僕に言う。
どんな飼い主にもそう言ってるんだろうなと思ってしまう僕の性格は曲がりすぎて、もはや円を描いているかもしれない。
お礼を言うとすぐに部屋に通された。
手術のショックからか、麻酔からか、はたまた金玉を取られたからか、少ししょんぼりしているように見えた愛猫。
先生はこの後のことなど説明してくれた。
「言われていた通り、これどうぞ」
渡されたのはホルマリン漬けにされた愛猫の金玉だ。
ヤクルトくらいの大きさの容器には金玉が浮かんでいた。
もちろん二つ。
くれと言ったくせにそれは少しグロテスクに見えた。
「アホなことお願いしてすみません」
僕にも少しの羞恥心はあるので、その想いを顔に貼り付けた表情で言った。
「いえいえ、たまにいらっしゃいますよ」
先生の思わぬ返事に僕はそのたまにいらっしゃる顔も名も知らぬ金玉を持って帰る人を抱きしめたくなった。
抱きしめる相手もいないのでホルマリン漬けの金玉が入った容器を握りしめる僕は仲間がいたことに安心する。
肩身の狭い思いから解き放たれ少し背筋を伸ばした。
少し気になるのか、やはり自分の股間を舐めたりしている。
痛むんじゃなかろうかと心配する僕は立派な親バカなのだろう。
去勢した方が長生きする。
それならばと思ったがやはり我が愛猫にメスを入れる判断をしたのは自分なのだから僕も同じだけの痛みを伴いたくなる。
そんな思考はなかなか気持ち悪いと思う。
それと同時に金玉を持ち帰りたいと思う人がたまにいることに安心し、そのおかげで恥ずかしがる奥さんにも少し堂々としていられた。
「たまにいらっしゃいますよ」
先生の言葉にすがるようにこの言葉を脳内で呪文のように唱えた。
!!!!!!!
もしかして!先生は「たまに」と「玉に」をかけたんじゃないだろうか!!
そのことに急に気づき、僕はいろめきだった。
思ったことをすぐに口にしてしまう僕だが、奥さんにまた怪訝な顔をされる未来が想像ついたので喉を締め付け、言葉を捕まえた。
その代わりにここで書かせてもらう。
あの先生は「たま」と「玉」をかけたんだろうか。
今これを書いている横で眠る愛猫の股間には入れるものを失った袋が寝息と共に浮かんでは沈む。
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