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    [#97] 何とも言えない 『涙の理由』

    KITSU

    2022/11/07 19:00

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    『涙の理由』


    どこまでも行ける。

    自転車は僕をどこまでも運ぶ。

    あの頃の体力は底を知らない。


    塾に向かうのだって自転車だ。

    小学校の頃から塾に通わせてもらったのにバンドマンになってごめんなさいと言いたい。

    自転車のカゴには筆記用具とノート。

    隣町までなんてへっちゃらだった。


    今考えると僕は事故ってばかりだ。

    いつか交通事故で死ぬかもしれない。

    この日も事故というには可愛いものだが一人で転けた。

    自転車で塾に向かう道で。

    体は大したことなかったのだが、自転車のチェーンが外れた。

    その頃の僕にとってこんなことは初めてで塾に遅刻しそうで一人焦っていた。

    変な汗が流れたのは覚えている。

    小学生にとって外れたチェーンを付け直すのは至難の業だ。

    が、大人になった今なら出来るのかと言われれば少し自信がない。


    あーでもない、こーでもない。

    小学生の僕は手を油で真っ黒にしながらも道でチェーンを直した。

    でもつけることは出来ない。

    塾に着いてもこんな手でノートを触ればノートも真っ黒になるに違いない。

    想像してほしい。

    子供がいる方は我が子を、子供がいない方はいるとして。

    自分の子供が自転車で倒れ、チェーンを必死で直している姿を。

    泣けてきませんか?

    僕は頑張りながらも塾の遅刻への罪悪感と、チェーンがなかなか直らない焦りで泣きそうになっていた。

    「どうしたの?」


    急に声をかけられ涙目になっていたのを必死に隠しながら声の方向へ振り返った。

    おばさんと言うには年老いて、おばあさんと言うには若々しい女性が心配そうに僕を見ていた。

    「自転車壊れたん?」

    そう言ってくれた女性に僕は泣き声で返事することに恥ずかしさを覚えコクリと頷くことしか出来なかった。

    「おばちゃんも自転車のことようわからんから、すぐそこに自転屋屋さんがあるからそこで直してもらい!」

    近くに自転車屋があったことも知らなかったが、知っていたとしても行けなかった。

    僕は筆記用具しかなく一円も持っていない。

    無一文でそんなところへ行く勇気もなかった。

    涙は引いてきたがその優しさに何と返していいかもわからなかったため、直せもしない自転車を触り続けた。

    「これであそこで直してもらい!」

    女性の手には五百円玉があった。

    せっかく引いた涙が出そうになった。


    情けなさと小学生ながら絶望の淵にいた僕を救ってくれた感謝からの涙。

    でもそれを見せまいと踏ん張り、女性から五百円玉を受け取る。

    「それあげるから!」

    そう言いどこかに行ってしまった。

    きちんとお礼を言えただろうか。

    女性と離れてから自問した。


    自転車屋さんへ向かう。

    塾はもう遅刻どころか欠席扱いだろう。

    カゴの筆記用具とノートが入ったカバンが急に重たくなる気がした。

    自転車屋のおじさんにチェーンを直して欲しい旨と言わなくていいのに自転車屋さんにこれまでの経緯を話した。

    僕よりも手が真っ黒なおじさんは無愛想に僕の自転車を診る。

    おじさんは少し鼻で笑い一瞬でチェーンを直してみせた。

    同じように手が真っ黒に汚れていても僕とは経験も腕も何もかも違うのだ。

    憧れにも似た感情でその所作を見つめる僕におじさんが言った。

    「これくらい自分で直されへんのに自転車なんか乗んな」

    恥ずかしさと情けなさと心強さと。

    心強さは嘘です。

    すんません、思いついたら言いたくなってしまいました。

    恥ずかしさと情けなさで僕はみるみる顔が赤くなった。

    大人からの優しさと厳しさを短時間で浴び、自分の感情がわからなくなった。


    近所の人が見てくれていて、後日その女性を見つけることができた。(田舎ってすげー)

    オカンと一緒にお礼と菓子折りと、頂いてしまった五百円を返しに行った。

    女性はあの時と同じ優しい顔で「そんなんええのに~」と言っていたが、僕とオカンは何度も頭を下げた。

    心からの感謝の言葉を不器用ながらも伝えられて良かったが、何がかまだ心に引っかかる。


    おじさんに言われた言葉がショックだった。

    今考えるとそのおじさんは幼い子供になんて大人げない言葉を浴びせたのかと思うが、あの時は何だか響いた。

    響いたというか喰らった。

    「これくらい自分で直されへんのに自転車なんか乗んな」

    あの日何回も涙が出そうになるところで耐えた。

    しかし自転車が直って嬉しいはずの僕が唯一涙をこぼしたのは、おじさんからの一言を聞いた自転車の帰り道。

    それはもう夜が夕方を食べてしまいそうになる時間。




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