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[#83] 何とも言えない 『〇〇の件でお世話になっている者です』
『〇〇の件でお世話になっている者です』
愛着というものが光の速度で湧いてしまうのが僕である。
前の街には四年住んだ。
絶景でもない景色も、そんなに便利ではない立地も、数えるほどしかない飲食店も。
全てに情が湧き「何とも言えない」気持ちになる。
これがエモいというやつか。
新しい街に引っ越すのだ。
大阪人としては値切れるものは全て値切りたい。
大阪人に怒られるかもしれないが、親にそう教えられたのだから仕方ない。
引っ越しというのはお金がかかるものだ。
しかしダメ元で手当たり次第値切る。
担当の方には面倒くさい奴だと思われただろうし、横で聞いている奥さんも恥ずかしかったであろう。
「これからは電話のやりとりになります」
あぁ憂鬱だ。
吃音者にとって電話とは憂鬱なものなのだ。
吃音者にとっての前に。
バンドマンにとって契約の審査というのは怖いものだ。
とても売れているミュージシャンでもローンの審査に落ちたなんて話も聞いたことがある。
そりゃバンドマンなんて社会的信用は底辺に等しい。
「絶対に毎月家賃払えるんですね!?!?」
なんて言われても「たぶん」としか答えられない。
まぁそれに関しては誰しもがそうかもしれないが。
コロナなんてものがそのことを再認識させてくれるとは。
携帯に着信があった。
バイブには気付かないでいた。
吃音者にとって、電話を折り返すという行動は辛いのだ。
本当はかかってきた時に確実に出ておきたい。
なぜならかかってくる分には相手は僕に(タナカ)にかけてきている。
しかし折り返す時は、ほぼ名乗らないといけない。
「タナカです」と言えないので、もう一度かかってくるのを祈りながら待つ。
電話はない。
番号的に不動産屋さんだな。
そう思った僕は勇気を振り絞り折り返しの電話をした。
作戦はこうだ。
「〇〇でお世話になっている者です」と言おう。
〇〇とはマンション名。
幸い新しいマンションの名前はタ行ではない。
電話が繋がる。
「もしもし、〇〇でお世話になっている者です」
よし噛まずに言えた。
「お名前お伺いしてもよろしいですか?」
僕の稚拙な作戦は一瞬で崩壊した。
気づいた時には電話を切っていた。(不動産屋さんごめんなさい)
新しい街は以前よりもファミリーが多く空が広かった。
だからと言って前の街もやはり好きだ。
手続きの電話などは奥さんがやってくれた。
少し前に「タナカ」になったばかりなのに、僕より上手に「タナカ」と言える。
名乗ってもらってから僕が電話を代わり話すこともある。
逆に言えば、それくらいで事はすんなり行くのだ。
誰かに少しの力を借りれば電話でも滞りなく対応できる。
しかしそれは吃音だけじゃなく、生きていく上で何をするにも誰かの力を少しずつ借りて生きているんだと思う。
つまり僕が誰かに少しの力を貸していることだってあるのだ。
引っ越しを経て、少しの力とは言わずそれなりの力を貸せる時は貸したいなと思えたのだ。
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