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[#68] 何とも言えない 『高野さん』
『高野さん』
東京という街にもご近所付き合いというものがあるのだ。
「東京の空の星は見えないと聞かされていたけど、見えないこともないんだな」
とフジファブリックの志村さんも歌っていた。
家の向かいの高野さんと挨拶を交わすたびにフジファブリックの「茜色の夕日」が脳内で再生された。
でも普通に暮らしていて近所付き合いが始まったわけではない。
同じマンションの住人の顔すら知らないのだから。
向かいの大きな一軒家に一人で暮らす高野さん。
もう六十歳後半くらいだろうか。
か細くて、声は小さいがお喋りが大好きな様子だ。
いつも謎のブランドのキャップを被り、右手首が悪いのかプロボーラーみたいなサポーターを巻いている。
そして何よりお酒が大好きで駅前の飲み屋にほぼ毎日高野さんの姿があった。
閑静な住宅街。
駅から十分以内でも東京とは思えないくらい普通の住宅街だ。
野良猫の顔も覚えた。
もうすぐ家に着く最後の曲がり角を曲がると、うちの奥さんとおじいさんが立ち話していた。
奥さんの横には自分の自転車、そしてそのおじいさんが僕には弱って見えたことにより。
僕は勝手に、奥さんが自転車でおじいさんに怪我をさせてしまったのだと思い込み慌てて彼らの元に駆け寄った。
僕の予想は外れるし、思い込みは激しい。
「どうした!?」
そういう僕に奥さんは呆気にとられた様子だった。
「スマホの使い方がわからないらしいから」
僕は事故や怪我じゃなくて良かった思うと時間差で汗が流れた。
「すみませんね~息子にLINEを返したいんだけど、LINEが見つからなくて」
申し訳なさそうな顔で僕にもわざわざ事情を説明してくれたそのおじいさんの名前が高野さんというのは後に知った。
スマホは僕ら夫婦が使っているものではなく一緒にLINEを探すも少し手間取った。
その間の高野さんの顔は眉が八の字になる程終始申し訳なさそうだった。
「息子たちはもう出て行って、奥さんとは別れちゃって、ここに一人で住んでるのよ」
高野さんは少しオネエ口調だ。
もしくは純粋な東京弁というやつが僕にはそう聞こえるのだろうか。
彼に代わってスマホを触る間、僕らに気を遣ってかたくさんお話をしてくれた。
「この地域で困ったことがあったら何でも言ってね、どこにでも顔が効くんだから」
高野さんは僕らにそう言ってくれたが、LINEで困っている高野さんがこの地域の道に転がっている現実に笑ってしまいそうだった。
「あった!!」
たぶん高野さんくらい電子機器に弱い僕に代わって(というか初めから)奥さんがLINEを探し当てた。
「これで息子に返事できるわ、ありがとうね~」
高野さんは泣き出しそうなくらい喜んでくれ、僕らに感謝の思いを重いくらい伝えた。(僕は何もしていない)
まだコロナ前ということもあり僕らは高野さんから何度も握手を求められた。
手首の心配をしてしまったが、あまりに求められるので痛くはないのだろう。
大したことはしていないが、少し良いことをした気分の僕らは何だかふわふわしていて猫にいつもより多めにご飯をあげた。
高野さんと別れてすぐに家のチャイムが鳴る。
「さっきはごめんね~」
高野さんだ。
そしてやはり少しオネエ口調だ。
扉を開けると何やら大きな袋を持っている。
「お礼がしたくて家にあるもの色々持ってきたのよ~」
そう言うと袋を僕に渡した。
「そんなお礼なんていいですよー!」
僕は断るが高野さんは引かない。
「何か差し上げないと僕の気持ちが収まらないの!ねぇもらって!!」
じゃあ遠慮なくとその袋を受け取りその日二度目のサヨナラをした。
あの街が好きだった。
なんてことない、どこにでもある街なんだろうけど。
何か好きだった。
駅前の飲み屋を覗くと決まって同じメンツのおじさんが飲んでいて、その中にいる高野さんが楽しそうで。
僕に気づいた高野さんが手招きする。
「今日は無理なんすよ」
そう言って断ったりした。
コロナになってからはその景色が消えた。
飲み屋でしか見なかったおじさんたちはどこへ消えたのか。
飲み屋に現れるおじさんの妖精だったんじゃないか。
彼らの幸せを奪うコロナを恨む。
僕はその街から引っ越したが、コロナが収まったらその景色を見に行きたい。
高野さんがくれた袋の中には脈略もない様々な種類のお酒が入っていた。
お酒ばかり。
高野さんの精一杯の気持ちと、家の中の酒をかき集めた様子を想像するだけで幸せな気持ちになった。
コロナ禍が彼の幸せを奪う。
あの街の活気も奪う。
高野さんが身体を悪くしない程度に自由にお酒が飲めるようになることを祈る。
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