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[#65] 何とも言えない 『エモいね』
『エモいね』
今日は結成日。
大阪の小さなライブハウスで四人の少年は音を鳴らしその音は数人の客の耳を通り、十五年の時を経て難波ハッチを揺らす。
小太りのドラムがキンタに連絡を取り「バンドしないか」と声をかけたことで始まる物語はそれがそのまま人生となる。
楽屋はいつもに増して差し入れやお祝いの品が多く、逆に居心地の悪いものになっていたが有難い話である。
難波ハッチの楽屋から湊町の川を眺めることができ、祝日の朝から楽屋入りしていた僕らは思い思いに自らの難波での思い出とそれらを重ねた。
今日は大事なライブだというのに、楽器の部品が必要になり僕は散歩がてら買いに行くと申し出た。
近くのアメ村には何軒も楽器屋さんはある。
あの難波ハッチから一番近いところに行こう。
そう思い歩き出すと、その楽器屋は古着屋さんに変わっていた。
もうアメ村の変化にも気づかないくらい僕らは東京で長く暮らしている。
バンドを十五年もやれていることを、その古着屋を見て感じることができた。
いつもよりスタッフが多い。
何たって生中継が入っているからだ。
さまざまな理由で来れない人にも見てもらいたい。
しかも撮影チームはスペースシャワーTVのクルー。
何の心配もいらない。
結果三万人以上の人がその生中継を見てくれたとのこと。
見てくれたからなんだ。
その三万人一人一人にある心臓を動かすことができて初めて音楽に触れたと言えよう。
ライブまでもやることはある。
ポスターへのサイン。
これは結構大変で、油性のマジックはそんなすぐには乾いてくれない。
ポスターを重ねないように、しかし机のスペースえお考え、折り目がつかないように。
サインを書くスピードも三人それぞれ違う。
だいたい僕が一番早い。
それを終えてライブ中自分の足元に置くセットリストにメモを書き込んでいく。
MCは基本ノープランだが、トピックのワードくらいは書いておく。
吃音が出ないように無意識にタ行のワードは避けている僕の名前がタナカなのは何という皮肉だろうか。
今日のライブは長い。
「お客さんしんどかったら座りや?」
とメモを書いた。
そんなケアくらいは忘れずにMCで言いたかった。
楽屋にはまた差し入れが運び込まれていた。
ライブハウスのジャニスからスイーツが届いた。
泣かせるぜ。
難波ハッチはアメ村にも堀江にも近く、学生の時からその辺で遊ぶ僕らにとっては常に見えていたもの。
建物としては。
あそこでお金をおろして勇気を出して高い服を買ったこと。
あそこで彼女と喧嘩しながらお茶したこと。
あそこで打ち上げの後ゲロを吐いたこと。
ここで憧れのバンドのライブを見たこと。
お菓子、甘いもの、酒。
あたりが差し入れとしてはやはり多い。
甘いものが苦手な僕はお酒は有難い。
大きなビールが一箱置いてあった。
シンタローと吉田さんはお酒を飲まないのでだいたい僕とキンタの山分けとなることが多い。
有難いなーと思いながら、そのビールの差出人を見た。
熊本からの荷物で、「浅川」という名前が書かれていた。
心とはどこにあるのか知らないが、名前のない感情が胸を締めつけた。
楽屋に人もたくさんいた為その動揺を悟られまいと「エモいね」なんて笑い誤魔化した。
あぁ生中継はもちろん熊本にも繋がることができる。
そして熊本から届いたビール。
僕はその缶を簡単に開けることはできず、そのビールはまだぬるいままだ。
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