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[#34] 何とも言えない 『作詞』
『作詞』
作詞の話をしよう。
なんでバンドのボーカルでもないギターの僕が作詞をしているのか。
そんなことは自分でも理由なんて分かっていない。
逆に僕に素晴らしい声があれば自分で歌詞を書いて、自分でそれを歌い上げていたのだろうか。
か細い声、すぐに枯れるガラスの喉。
やはりボーカルなんてできない。
世の中のボーカリストというのは凄いのだ。
そしてこれもずっと言っていることなのだが。
作詞なんて誰でもできるのだ。
どんな言語でもいい。
例えばあなたが日本人だとして、日本語が話せるなら誰でも歌詞は書けるのだ。
曲が書ける、楽器が上手い、歌が上手いなど。
特別な能力は必要ない。
音符に言葉を乗せるだけ。
幼い頃、毎週金曜日の夜にTSUTAYAに行っていた。
学校が休みの土日に観るアニメなどのビデオをレンタルしに行くのだ。
棚に並んだビデオを眺めては、何とかレンジャーだとか何とかライダーみたいなビデオを借りまくる。
そのTSUTAYAは実家から徒歩数分で、いつしか自分のカードを作ってもらい一人でレンタルに行けるようになる。
何気なく、初めてビデオコーナーではなくCDコーナーを覗いてみた。
オリコンのランキングに沿って並べられた八センチシングル。
SMAPなどのアイドル、ミスチルやB’zというバンド、小室ファミリー。
また新しい扉を開いた気がして子供ながらにワクワクしたのを覚えている。
作詞をする上で本をたくさん読んだほうがいいのだろう。
しかし僕はそんなたくさんの本は読んでいない。
僕は本ではなく歌詞をたくさん読んだのだ。
人の歌詞をたくさん。
それはTSUTAYAの思い出に由来する。
どのTSUTAYAでもそうだったのかはわからないが、最寄りのTSUTAYAにはレンタルのCDの横に歌詞のコピー用紙が何枚もテイクフリーで置かれていた。
どうせすぐにCDは返却して歌詞は読めなくなるのだからと、借りたCDの歌詞カードのコピーは全て持って帰った。
それを毎週のように行っていたら、作詞家の出来上がりだ。
こんな単純な話ではないとは思うが絶対に僕の作詞家としての礎を築いた行為であったと思う。
今では歌詞なんてネットでググれば転がっている。
でもそのコピー用紙は僕にとって宝物だった。
良い歌詞とはなんだろう。
ここでかっこいい答えを短い言葉でビシッと決められるような技量は僕にはない。
とりあえずそれっぽい答えは出せるかもしれないが、回答した次の日に後悔しては、また違う答えを言っている気がする。
思ったことをそのまま書けばいい。
そんなアドバイスをよく聞くが、僕はそんなことは思わない。
それは言葉や思いで歌詞ではない。
ポイントはその一点くらいであとは自由なんじゃないか。
あの頃のTSUTAYAには品揃えは今思えば終わっているのだが、それでもギターの弦やピック、楽譜なども売っていた。
子供向けアニメなどのレンタルビデオからJ-POPのレンタルCDに、そこに置いてある歌詞カードのコピー用紙に心を踊らせ、そこからインディーズや洋楽のレンタルCDに、そしてギターを手にして弦が切れては新しい弦を買いに行き。
僕が歩んできた音楽の歴史は、実はあんな片田舎のTSUTAYAに全て詰まってたのだ。
レンタルの期限ギリギリのタイミングで次の日の朝、開店前の返却ポストにCDを滑り込ませたあの日。
僕は今日も大人のフリをしながら今もあのワクワクを燃料に歌詞を書く。
現在はそのTSUTAYAは閉店し、ダイソーに変わった。
実家の親や地元の友達と話すと、ダイソーをすごく有り難がっていた。
かなり大きなダイソーでだいたいそこに行けば欲しいものは揃うらしい。
まぁそういうもんだよな。
とは思うし、自分が今地元に住んでいてもTSUTAYAよりダイソーの方が嬉しいだろう。
でもこの歌詞にもならないような感情は何だろう。
胸を大男に押されているのかと思うような切なさ。
頭の後頭部の方の脳がチクリと痛み、シュワシュワとあの頃の景色がセピアに変わっていく。
大丈夫。
音楽は手を動かせば鳴って、言葉は僕の脳にある。
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