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[#230] 何とも言えない 『くりかえされる諸行無常』
『くりかえされる諸行無常』
死んだらどこに行くんだろう。
誰もが考えたことがあるとは思うんです。
子供の頃、僕もよく考えていた。
でも大人になり生きるのに必死で毎日を過ごしているとそんなこと考える暇もなくて歳を重ねる。
毎日誰かが産まれて、誰かが死んでる。
それら全てに喜んだり悲しんだりしていたら心がもたないけど、毎日確かに喜んだり悲しんだりする人がいて。
考えると途方も無くなる。
それでも命を預かった者や、残された者は明日からもまた生きていく。
普通の生活に戻っていく。
大人になればなるほど命の始まりも命の終わりも経験する数が増える。
向井秀徳さんが何回も歌っている言葉。
くりかえされる諸行無常。
同じ歌詞って他の曲にも何回も使っていいんですね。
この”くりかえされる諸行無常”という歌詞はネット情報ですが彼の色んな楽曲の中で46回も登場するらしいです。
この言葉が頭から離れない時がある。
人が亡くなった時だ。
生命の誕生のシーンでは頭に浮かばない。
それは悲しみの中で救いを求めるかのようだ。
先日親族が亡くなった。
年齢としては90歳を超えていたので大往生だ。
亡くなるほんの少し前まで本当に元気だった。
でもそれは突然なのだ。
昨日出来ていたことが急に出来なくなったり、急にトイレまで歩けなくなったり、物忘れが増えたり。
その歳にもなると日々の衰え方が急カーブを描いて下降する。
これを僕はそばで見ていて何か既視感を覚えたのだ。
娘だ。
彼女は昨日出来なかったことが急に出来るようになる。
急に座り、急にハイハイし、急につかまり立ちをする。
日々の成長曲線が急カーブを描いて上昇する。
僕はその二人を見ていて人間とはうまく出来ているなと思ったのです。
そこに始まりと終わりを見た。
生きている間に何度も娘を抱っこしてもらえてよかった。
90歳以上離れた二人。
その景色は立ち入ることのできない聖域を見ているようだった。
故人がいなければ娘もいなかったのだ。
当たり前のことだがその当たり前を再度噛み締めてみようと思う。
誰が欠けても僕は娘に会えなかった。
これは生き死にだけの話ではないと視野を広げてみる。
僕が第一志望の高校に落ちなければバンドのメンバーにも会うことはなかった。
汚いライブハウスでスカウトの人がいなければデビューなんてできずに東京に住むことはなかった。
バンドをしてこの歳までご飯を食べていることはなかった。
これを読んでくれているあなたと出会うことはなかった。
感傷的になっているのか。
いや違う。
僕はもともとこんなことをずっと考えてしまう少年だったし、今もそうだ。
命の螺旋や人との巡り合わせみたいなことを今も不思議に思っている。
親がたまたま出会って結婚しなければ僕はこのコラムも書けていない。
故人がいつも座っていた椅子は空席。
おっとりした老いた声が聞こえない。
仏壇には遺影が増える。
悲しみがまたひとつ増える。
しかしオギャーという鳴き声が聞こえる。
仏壇に手を合わせる小さい手がある。
0歳の娘が笑うだけで全員が笑顔になる。
人が減り、人が増える。
僕もいつか居なくなる。
早くに死ぬのか大往生なのかはわからない。
僕が死んでから僕抜きで楽しいことがあるのが悔しくてたまらない。
お化けになってでもその楽しいことに参加したい。
くりかえされる諸行無常。
僕もあなたもその中にいる。
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