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[#130] 何とも言えない 『フォローを外すという意思表示』
『フォローを外すという意思表示』
相互フォローだと思っていた。
不意にあの人が僕のフォローを外していることを知る。
「ほぉ、そう来たか」
僕は敢えてそのままに彼をフォローし続けた。
確かに最近は疎遠になっていたし、僕はその人を良くは思っていなかった。
しかし個人的な想いとは別に、SNSというもので繋がっていることにある程度の社交辞令感を孕ませているつもりだったからだ。
それがこの時代の大人というものなのだとも思っていた。
「もう絶交や!!」
この言葉を言われた時は子供ながらに、この先の人生が詰んでしまったかのような絶望感があった。
人間関係を学ぶ場である学校の同級生にそれを言われ、絶望し、結果的に仲直りできているのだから僕はきちんと勉強以外は学ぶことができていたんだと思う。
フォローを外されたことを知った時、あの頃面と向かって絶交を叩きつけられた時の感覚が蘇った。
しかしそれは一瞬で波が引いていくかのように消えた。
そう、やはり面と向かって言われたものとSNSでソッと縁を切られるのとは決定的な違いがあったからだ。
そこには潔さや筋や正々堂々や、大切にしたいカッコいいものが一切ない。
それが心にモヤモヤを残す原因である。
初めて見るバンド。
会場は僕も何度もステージに立ったことのあるライブハウス。
駅からの道も慣れたものだ。
西日が僕の影を伸ばす。
会場にはそのバンドのポスター。
僕は気になっていたそのバンドを見に一人ライブハウスに居た。
会場が暗くなるまでの一人の時間は孤独だ。
ライブが始まればそんな気持ちすぐになくなるのに。
LEGOのライブに一人で来てくれている人もこんな気持ちなのだろうか。
でも一人ででも何人ででもライブが終わった時には関係ない気持ちにさせてあげる。
SNSが生かしたもの、殺したものはなんだろうか。
ダイナマイトを作ったノーベルも建設土木の現場のためにという思いと、これはもしかしたら戦争に使われるんじゃないかという思いに板挟みになっていたという。
結局は全て使う人次第。
SNSも然り。
ネット上で起こっていることは自分がネットに居ないと存在しないのと同じ。
少しSNSから離れるだけで浦島太郎状態になることも最近では珍しくない。
その浦島太郎状態は喜ばしいこと?
悲しいこと?
そのライブハウスで孤独と戦いながら開演を待っていると横に僕をフォローから外した人が来た。
もちろん偶然。
敢えて声をかけに行くのは余程孤独だったのか、それとも余程僕の性格が悪いのか。
その人は顔に何とも言えない表情を貼り付けていた。
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