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[#15] 何とも言えない 『youやっちゃいなよ』
『youやっちゃいなよ』
メジャーデビューし取材も増え、今までとは比べ物にならないほど新たな出会いがあった。
その度に自己紹介をすることが億劫になっていた。
まだ自分が吃音であることも、そもそも吃音というものも知らなかった。
「ギターのヒロキです」
タナカと言わずに済むこの自己紹介でその場を乗り越えた。
しかしそのフレーズも上手く言えるのかの不安が頭にいっぱいで言い終わった後には言えた安堵で相手の名前を全く聞いていないことがほとんどだった。
大変失礼だったと思うが僕は得体の知れない恐怖と戦っていたことだけは理解してほしい。
吃音という恐怖と。
東京の父がいる。
大阪出身の僕らを東京に呼んだ人だ。
小林武史氏。
彼にお父さんと言っても、こんな大阪弁の息子を育てた覚えはないと言われそうだが僕は勝手に東京の父と思っている。
彼は大物プロデューサーだ。
サザン、ミスチル、マイラバ、レミオ、サリュ。。。
数えられない程のアーティストをプロデュースし数えられない程の名曲を世に放った。
こういう人のことをよく思っていない人もいるのは知ってる。
好きだった歌手が誰かのプロデュースのせいで変わった。
そんなファンの文句はよく聞く話だ。
実際このエンタメの世界にはそういうこともあったんだろうと思うし、胡散臭い人もいるんだろうとは思う。
でも僕は小林さんをそんな風に思ったことはない。
彼はいつもバンドファーストで僕らを守ってくれた。
東京の父だ。
ゲッターズ飯田さんという占い師をご存知の方も多いと思う。
占いなどにあまり行ったことがない僕でも名前と姿は知っていた。
そんなゲッターズさんに縁あって占ってもらうことがあった。
生年月日と名前と手相。
これしか情報がない中、僕の性格や癖などバンバン当てていく。
ちなみにその時、僕の友達はいつ赤ちゃんできますか?と聞いて、今奥さんのお腹にいると思うので検査してくださいと言われて実際奥さんはご懐妊していた。
もう恐ろしいのである。
そんな人にマイナスなことを言われると絶望する。
僕は十八歳から精神的に成長していないと言われた。
その通りだ。
異常に麺類が好きだとも言われた。
その通りだ。
極貧ではないが大金持ちになる素質がないと言われた。
その通りだ。
でも俳優さんとして売れると思いますと言われた。
なんだそれは?
時代劇とか侍役が来るかもしれませんと言われた。
なんじゃそりゃ?
ある日小林さんに僕だけが事務所に呼ばれた。
そんなことは基本的にないので僕だけクビにでもされるのかと思いながら社長室をノックした。
小林さんはこの頃は僕のことを「タナカ」と呼んでいたが、いつ頃からか「ヒロキ」に変わった。
いつなぜ変わったのかは覚えていない。
「おー来たか、そこ座れよ」
文字にすると高圧的だが、優しく僕をソファへ促した。
部屋に二人っきり。
そして小林さんの第二声目がこれだ。
「タナカ俳優やらないか?」
ジャニーさんの「youやっちゃいなよ」
みたいに聞こえた。
映画の話だった。
これを言われたのはゲッターズさんの会う何年も前の話だ。
彼は三十代後半で俳優の仕事が来ると言った。
でも小林さんは何年前にこんなオファーを僕にしたのだ。
そして僕はこの頃から僕は吃音という言葉は知らなかったが、自分の発音に異常があることに気づいている。
しかしまだそれの正体もわからずコンプレックスになったばかりだった僕にとってはこのオファーは絶対引き受けられない話だった。
どこの世界に吃音の俳優さんがいるのだ。
実際いらっしゃるのかも知れないが、僕は当時決められたセリフを話すことがどれだけ頑張ってもできる気がしなかった。
そんなこととは知らずに小林さんは、僕を安心させるように今回の話を進める。
テーブルのコーヒーの味はしない。
小林さんが思っている僕の不安と、僕の吃音があるが故にこの話は乗れないだろうという僕の不安は食い違っている。
彼は僕がやったこともないチャレンジに対して不安を抱いていると思っているに違いなかった。
そう思うのは当たり前だと思う。
なぜなら僕ば明らかに動揺していた。
でも実際はその不安が吃音から来ていると説明できる知識が僕にはなかった。
吃音症という言葉さえ知らなかったのだから。
「無口なバンドマンの役でセリフも少ないし、細くて長髪の見た目もピッタリなんだ。どうかな?」
あくまで高圧的ではなく優しく説明してくれた。
「いやぁメンバーにも意見を聞きたいっすねー」
とか言った気がする。
でも僕は何を焦って不安な気持ちになっているのだ?
吃音のことは置いておいてもバンドがこれからって時なんだから断ってしまえばいいのだ。
そう思って飲んだコーヒーはぬるくなっていたが苦味を感じた。
僕は少しは冷静になっているようだ。
そして自分の気持ちを自分で理解した。
恥ずかしい話だが、ちょっと興味を抱いてしまっていたのだ。
俳優という仕事に。
そしてそれが発音の問題で引き受けられないという悲しみも同時に抱いてしまったのだ。
飲み干したコーヒーは冷たくてとても苦かった。
カバンの中を覗く。
まだ大阪の実家で暮らしていた僕は映画の話を断りきれないで渡された台本を一人部屋で開いてみる。
タ行のセリフを確認する。
僕は吃音でタ行が苦手なのだ。
小林さんの言う通りセリフは少なめな役柄ではあったがタ行はあった。
やべーな。
いや、やべーな。ではなく早くこの話を断ればいい。
しかし僕の後ろ髪を何かが引く。
一応声に出してセリフを言ってみよう。
僕は初めて台本の本読みというものをやってみた。
ここで僕は衝撃的なことに気づく。
セリフは全て標準語なのだ。
そりゃそうなのだが、なぜ今までそのことに気づかなかったのだ。
標準語を話す自分の顔は恥ずかしさで見る見るうちに赤くなる。
誰に聞かれているわけでもないのにだ。
吃音どうこうの前に標準語が話せない。
話せているのかも知れないが恥ずかしさが全てを凌駕する。
吃音のことなんて忘れて僕は台本をそっと閉じた。
僕は髪を切った。
ちょうど髪型を変えたかったのもあるが、小林さんの役のイメージの長髪をやめることで映画の話を潔く断るためでもあった。
一人で入るのは二回目の社長室に入る。
「あれ?髪切っちゃったの?」
小林さんはそう言って笑っている。
「まぁカツラ被ればいいか」
小林さんがそう言った時はそう来たかと思った。
でも僕の心は決まったのだ。
「小林さん、かなり考えさせてもらったんですけど、やっぱり僕はバンドで頑張りたいのでお断りします」
吃音のことは隠した。
「標準語話してる自分に笑ってしまって」
そう言うと小林さんは「そうか、そうか」と笑いながら残念がっていた。
「まぁ正直断るだろうなと思っていた」
小林さんはそう言ってLEGOの未来の話をし始めて、それ以降は俳優の話はしなかった。
その切り替えの良さとぐちぐち言わない男気みたいなものを感じた。
ゲッターズさんの占いは当たるのだろうか。
吃音の関西弁の男に俳優の仕事なんて来るのだろうか。
もし本当にそんな話が来たらこの「KITSU」のコラムでまたそのことを書いてみたい。
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